Essay

脳内思考たれ流し。

安全神話と現場

「ーーー宗教は信じ、科学は疑う」

非常に的を得た表現だと思う。

インドネシア人船員と以前働いたが、1日5回の礼拝を欠かさず行う、ムスリムの敬虔さは日本人にはないもので、個人的には美しい姿と感じた。40代半ばの操舵手タルミジさんと当直中に話したがーーー仕事ぶりはあまり良くない人だったがーーー、礼拝を忘れてしまったことは人生で2回しかないらしい。

 

信じるとは自己流に信じるということだ、万人流には僕は信じない。だから間違うことはありますよ。でも、責任はとります。だから、信じるとは責任をとるということです。

とは小林秀雄の言葉だが、信じるという心の働きとその覚悟を良く表した言葉だと思う。

 

一方、疑うという行為は間違いは許されない。STAP細胞然り、疑いから出発する科学の世界では緻密さと慎重さが要される。

人の心を疑う人間は、大概科学的思考ではなく、宗教的思考で考えていると思う。責任はとれるのか、その覚悟はあるか。他人を疑うだけの強い心をお前は持っているのか。他人を疑うとは自分の心との問答だ。

 

さて、翻って安全の話。

 

現場に出る仕事をしてきて、強く感じるのは、我々は安全に守られる側ではない、安全を作っていく側だ。ということ。

仕事危なそうだね、なんてよく聞かれて、うんそうだね、と返しているが、お前の身の回りはそんなに安全なのか。安全というものを信じてお前は責任をとれるのか、責任をとる強い覚悟があるのか。かような態度が、現場に出てる人間と出ない人間との違いだと思う。

 

KY活動、Risk Assesment、BBSなど安全行動科学の手法は色々あるが、根本的に安全を担保するのは安全を信じるという心の働きをどれだけ深めるかというとこにある。疑うだけでは現場は動かない、進まない、緊急時に判断できない。安全を信じ、はっきりとした態度を持ち、作り上げていくこと、それが現場に立つ人間のマインドだ。

 

しかして、命の危機を感じたBEST3。

 

①コンテナ船でのラッシングロッド落下

 コンテナが風や波で飛ばないように、5-6mある鉄製の棒で固縛するのだが、甲板を歩いていたら真横数十cm先にラッシングロッドが垂直落下。取外し作業をしてた馬鹿クルーが、頭上数十mから下も確認せずぶん投げてきた。

 よくて肩を複雑骨折、ヘルメットをしてるとはいえ頭に落ちていたら即死に至るヒヤリハット

 

作業中こそ周りを見る。

ショートカットはいけない。

 

②バルカーで、ロープ破断

 係船ロープを新しいものに取り替える際に、古いものと新しいものを別の細めのロープを使ってコネクト。人の太ももより太く、重いロープを運ぶのには良い手段と思ったが、、、監視作業にあたってた自分の目の前でコネクトロープ破断。勢いよく飛ぶ係船ロープ。ぶつかっていたら骨折するか、吹き飛んで鋼製パイプに激突するか。

 

手間を惜しまない。

正しい用具を使う。

 

③ライフボートでガス中毒

 毎月の非常操練。ライフボートを海面まで下ろし、エンジンを前後進させて、再び揚収という流れ。5人でライフボートに乗り込み、海面着水までは良かったが、、、エンジン始動とともに大量の煙。原因はVベルトの焼付き。

 すぐさま艇内コマンダーの二等航海士に報告するも、高い位置にある操縦席に座る二等航海士には煙の状況が分からない模様。前へ後ろへ唸るエンジン、出るわ出るわ黒い煙。これはあかんとすぐにフィリピン人クルーに窓を開けるように指示。メカニカルの換気システムもないため、暫く艇内に漂う煙。エンジンの異常を確認するため近くにいた自分はモロに吸い込み、普段とは違う小型艇独特の揺れ、狭い船内の温度にやられ、それから3時間は頭痛に苦しんだ。

 

保守整備をしっかり行う。

緊急時にはすぐに作業を中断。

 

James Bondと徳川光圀

「007」は英国版水戸黄門という説を主張したい。

 

①完全懲悪のストーリー

②諸国漫遊

③お決まりのシーン(「Bond, James Bond.」、マティーニ、ボンドガール、ボンドカー、ガンバレルシーケンス)

④完璧ではない主人公像

⑤シリアスもコメディも兼ねる全世代対応

⑥国民性が投影された作品シリーズ

 

007シリーズは時代、監督、主演によって全く面白さや味も異なる。ダニエルクレイグ以降のシリアスな重厚ストーリー路線の007しか知らない人からすると、初期はどう見ても緊張感のかけらもないギャグ路線すらある。でも、それも007の懐の広さ。水戸黄門のストーリーに緊張感がないなんて文句を言う日本人はいないでしょう。

仮定法

If you could have told me everything

You would have found what love is

If you could have told me what was on your mind

I would have shown you the way

X JAPANのバラードの名曲「Tears」より、YOSHIKIの独唱部分からの引用です。小泉純一郎の影響で、今は「Forever love」がX JAPANのバラードの代表になってますが、この曲こそYOSHIKIの世界観を現す代表曲だと思っています。

Visual系を確立したX JAPANの曲では、愛という言葉が何度も登場しますが、記憶の限りだと恋という言葉は出てきません。というのも、YOSHIKIが歌詞に乗せて伝えたい愛とは、恋人同士との愛ではなく全て家族愛だからです。そこにはYOSHIKIの人生が深く関わっています。

YOSHIKIの父親は、彼が10歳のときに自殺で亡くなっています。病弱だったYOSHIKIに音楽を教えてくれたのは父親で、YOSHIKIはそんな父を深く愛していましたが、ある日学校から家に帰ると、父親が首を吊っていました。YOSHIKIは悲しみに暮れるのではなく、ただただ何が起きたのか理解できなかったそうです。思うに、10歳頃というのは死という概念を理解できるか理解できないかの境目にあたる年齢かと思います。自分も、小学生の頃に親しい親戚が亡くなったとき涙は出ませんでしたが、中学生の頃に親しい親戚が亡くなった際は涙が止まりませんでした。YOSHIKIは父親という存在の死を理解できないまま、父親への家族愛を永遠に失ったまま、涙の行き場さえなく生きて来なければならなかったのです。この父親の死というのは、YOSHIKIの音楽、人生観を決定づける大事件でした。

「Tears」はYOSHIKIが父親に向けて宛てたバラードになります。冒頭に挙げたYOSHIKIの独唱部分の「You」は、父親を指しています。

 

もし貴方が私に全てを伝えることができていたなら

貴方は愛とは何かを知っただろう

もし貴方が私にその心の内を伝えることができていたなら

私は貴方に道を示しただろう

 

YOSHIKIの深い悲しみと後悔が、この歌詞に現れています。

 

さて、英語の話。

仮定法って何?って聞かれたら、簡明に答えられるでしょうか?一言で言うならば、「現実とは異なる話をするための、特殊な動詞変化」です。

大学時代に塾講師として4年間勤めていたが、仮定法ってif、、、?と答える高校生の多いこと!

①If it is sunny tomorrow, I will go swimming.

②If it was/were sunny tomorrow, I would go swimming.

①はただの選択、可能性の話。明日晴れるか晴れないか分からないけど、晴れるんだったら海に行くという意。一方②は仮定法。動詞、助動詞が過去形になっている点がポイント。明日晴れたら海に行く、まあ明日晴れるなんて現実的に絶対あり得ないけどね!という意。(ちなみに、もともと特殊な動詞変化になるので、文語では主語に関わらずwereを用いる場合が多い)

②の文で仮定法はどーれだ?と言われたら指差すのは、was/wereとwouldです。

現実とはかけ離れたことを表現する仮定法は、動詞を過去形にすることによって表されます。何故か。

 

過去形=距離感

これが動詞の過去形のコアイメージです。

 

①時間的距離感→いわゆる過去形

心理的距離感→would you〜? could you〜?など控えめを表す敬語表現etc.

③現実との距離感→仮定法

 

③のように、現実とはかけ離れたことについて述べるために、動詞の過去形が用いられます。このときの過去形には時間的過去の意は含まれません。

ちなみに、仮定法の「法」とは、誤解を恐れずに言うと、言語学的には動詞の形の変化を言います。

さらにちなむと、仮定法で時間的過去について述べるためには、have +過去分詞という完了形の形を借用します。

If you could have told me everything

You would have found what love is

もし貴方が私に(あの時)全てを伝えることができたならば(現実にはできなかったが)

貴方は愛とは何かを(あの時)知ることができただろう(現実にはできなかったが)

 

ここまで来たら、仮定法はifという思い込みは解消されるかと。仮定法は現実とは異なることを表現するので、ifに代表されるような条件を表す表現と結びつきやすいだけです。以下、ifのない例。

①A gentleman would not act like that.

紳士ならばそんな振舞いはしないだろう

②The party would have been much more fun with her.

彼女がいたらパーティはもっと楽しかっただろう。

③I wish I could solve this problem!

この問題が解けたらなあ!

④He looked as if he had seen a ghost.

彼はまるで幽霊を見たかのようだった。

 

大学受験や英語資格試験的には、仮定法の理屈と文法の形さえ分かってしまえば、あとは仮定法がどんなパターンの表現と結びつくのかということを覚えるだけです。簡単。

 

改めて、「Tears」の一節を再掲。

If you could have told me everything

You would have found what love is

If you could have told me what was on your mind

I would have shown you the way

YOSHIKIが抱いている深い悲しみと後悔が仮定法を通してよく伝わる一節です。「Tears」は名曲なので是非聴いてみてください。

少年易老、学難成

非常に有名なフレーズだが、勝手に論語が出典だと思っていた。一度論語を通読したのにも関わらず。正しくは、朱熹の「偶成」という漢詩がこれまで出典だとされてきたが、それ以前から似たような詩文がいくつかあったらしい。

朱熹の「偶成」では、「一寸光陰不可軽」と続く。どちらも、月日は瞬く間に過ぎ、限られた時間を大切にすべきだという意に解される。果たしてそうか。

少年は老いていく。当たり前の事だ。何の捻りもない。時間という絶対的なものを前にして人間は無力である。だから、抵抗もへったくれもない。そんなことを孔子が生きた時代から千年以上も経って改めて言う必要などない。

少年があらゆる可能性を持った純粋無垢な存在を指し示すというなら、老人はあらゆる可能性を捨て去った自我に満ちた存在と言えよう。時間という絶対的な歩みと共に彼が得たのは経験に基づいたegoである。その意味で言うならば、どれだけ少年が抵抗を試みようとも、少年老い易し。だから「学難成」なのである。

時間の流れに対する敬意を持つことをただ伝えるのならば、「学」などという言葉は必要なかった。少年は学ぶ。未知の事物を偏見なく貪欲に学ぶのは少年の特権である。経験と知識に肖って、素直にものごとにぶつかることを忘れ、思い込みに生きるかつての少年は彼らを嘲笑って得意だ。「少年易老」と。

少年が大人になるには「一寸光陰」もかかるまい。

 

御衣黄

桜は好きかと問われたら、大多数の日本人のご多分に漏れず、好きである。

ただ、好きであると言う割には桜の名も知らぬというのは格好がつかないし、果ては桜なのか梅なのかも区別がつかないようでは余りに馬鹿げている。という訳で、桜を見るときには努めてその姿をしっかり見るようにしている。

 

桜→花びらに切れ込み。

梅→花びらは丸い。

桃→花びらは尖っている。

 

以前一緒に船に乗っていたフィリピン人が日本に上陸し、facebookに画像を投稿した。満面の笑みで花弁にそっと顔を寄せて、「サクラ🌸」と。梅の木の前で。笑い話で済ませるには勿体ない。

 

緑の桜があるーーーと言えば、彼らは信じるだろうか。名を「御衣黄」という。

大学時代、まあ怠惰な生活を送っていたのだが、授業にも出ず其処らをほっつき歩いていた。多摩川沿いのやや北、国分寺崖線を上がった所謂武蔵野近辺には多種多様な桜が今も残っている。多摩川沿いは新しい染井吉野ばかりだが、武蔵野台地には山桜だとか里桜だとか立派な桜が沢山ある。府中だか調布だかの辺りには、冬に咲く山桜があって、春の果敢ない桜と違った力強さが感じられ見事だった。

さて、国分寺の日立中央研究所の敷地内に御衣黄という桜がある。初めて見聞きした際には驚いたが、何てこともない、皇居にも新宿御苑にもあるらしい。秋田の方田舎にある国花苑でも立派に咲いていた。しかし、雑多な国分寺駅から少し離れ、年に数回しか一般開放されない私庭に咲く緑の桜ーーー、少なくとも自分には非常に美しく感じられた。

緑の桜といいつつも、黄とも白とも思わせる実に味わい深い豊かな緑色をしている。華美ではないが、やはり葉や茎の若々しさとは違った艶やかな花弁の色彩を見せる。遠目には一見して花が咲いている様には見えぬが、間近で見ると微かな色香を感じさせる。御衣黄という名前は萌黄色をした貴族の着物に由来するが、この桜が生まれたのは江戸時代であって、懐古の情が拭えない。

戦後より染井吉野が植えられて桜と言えばソメイヨシノとなったが、古来から和歌で詠まれてきた花は山桜である。御衣黄はまた別の日本原産の大島桜を母としていて、里桜の仲間にあたる。今年はコロナ禍で花見もろくにできない時勢となって春は過ぎたが、川沿いに密集して咲き並ぶ染井吉野よりも、ぽつぽつと併し確かに力強く咲き誇る山桜と里桜に日本人らしい姿を感じる。

ブログ始めました。

タイトルの通りである。

140字以上の自己表現など久しく、別段自らの主義主張もなければ、伝えたいことがある訳でもない。しかし、「書きたい」という内なる欲求が如何ともできず、兎にも角にも書き出すことで形になるものもあるか知らんと、自慰めいた散文を書こうと思った次第である。

じゃあ、独りで日記でも書けばいいじゃないかーーーという話になるのだが、元来三日坊主、堪え性の無い自分にはそんな孤独な習慣が続くとは到底思えない。異国の見知らぬ人を思って小瓶に手紙を忍ばせ海へ浮かべるように、語るべき何かより、人には語るべき誰かがまず必要なのである。

書くことはないが、書くことによって生まれる思考がある。それが遠い誰かのもとに届くのならーーー